地元アイドルpacchiが創刊12年に隠された秘話に迫る
青森県八戸市のご当地アイドル「pacchi」は、創刊12年の地元情報誌「八戸マガジンUKIPAL(ユキパル)」にインタビューをした。出版社代表の外和朋子(69)と編集長の外和雅章(69)は偶然にも同じ八戸市内に生まれ、同じ1954年に生まれた仲。2人が見てきた八戸市のイメージは異なるもので。奇しくも結婚、地元をPRする雑誌を夫婦で作り上げることになる。その経緯と今まで表に出てこなかった成功秘話を話してくれました。それも地元応援アイドルとして活躍するpacchiだからこそ心を開いてくれたのかもしれない。
―――取材した人を全員応援したい。一緒にコラボしている気持ち。常に前向きに活動している人と一緒に頑張りたい、それが「PRマガジン」
pacchi UKIPAL(ユキパル)創刊100号突破おめでとうございます!pacchiもいつもお世話になっております、ありがとうございます!改めて外和(そとわ)さんご夫婦の自己紹介をお願いしてもよいですか?
外和雅章 はい。編集長をしております。1954年1月6日、八戸市生まれで八戸工業高等専門学校土木科を中退し、18才で印刷会社に入社。企画デザインを担当したあと21才で家業の会社経営を継ぎました。実家は館鼻岸壁朝市の会場から徒歩30分ぐらいで、よく八戸漁港の辺りは遊び場でした。趣味は、うーん、以前はいろいろあったとうな気がするけど、今は音楽を聴くことぐらいかな。昔、聴いていたのは、ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン。pacchiにはそんなロック・クラシックも聞いてほしいですね(笑)
外和朋子 出版社「企業組合ユキパル」の代表をしております。1954年2月18日、八戸市生まれで八戸聖ウルスラ学院高等学校を卒業後、二松学舎大学文学部国文学科へ進学し、卒業後、建築関係の仕事に就きました。趣味は様々な分野のブログを見ること、健康ヲタク。特に食べ物、ローフード、スムージーなど。
pacchi 同じ八戸市生まれで同じ年のお二人は見てきた風景、八戸に感じてきたことは同じだったのですか?
外和雅章 いえいえ。同じ八戸なのに別の街。私は館鼻の湊町、気性が荒い。朋子は市川町というアメリカ駐留軍の物流の拠点駅があって、いろいろな人が集まった町です。思うのは八戸っていうのは、これという1つにまとまったイメージがないんです。城下町というのに城(天守閣)がない。漁業の街であり、工場地帯の街、農業もあって、新幹線が通ったり時代が進むとまたいろんなものが混じり合って。だから現在の八戸と私が小さい頃に感じてきた八戸のイメージは全然違ってますね。
pacchi お二人にとって八戸のイメージはいつ頃が強い印象ですか?
外和朋子 13才から15才。家族で三日町に出かけてゴハンを食べてました。
外和雅章 今の館鼻岸壁朝市の場所は埋め立て地で、私が10歳の頃は天然の砂浜で遊び場でした。貝を採ったりね。今ですと製氷工場あたりの場所です。その頃の八戸の風景は今はすっかりなくなってしまいました。今じゃ考えられないかもしれないけど、新幹線駅ができる前は、八戸といっても「はちのへ」と呼んでもらえず「はっと」や「やと」と呼ばれることも多かったし、日本の端っこで青森の端っこという感じがしてたんです。ユキパルという意味は青森県南地方の方言で「結わえる、結ぶ」の意味。人間は寂しい生き物だから人と人との縁をつなげたい——というより自分自身がつながりたいと思ったから、雑誌という形で、今現在の八戸の良さ、頑張っている人を発見してつながりたいと思ったのかもしれません。
pacchi お二人が出会ったことは自然な流れだったんですか?
外和雅章 そうですね(笑)。好奇心旺盛で漁業の町で育った内弁慶で突っ張っていた私と、お嬢様育ちの妻は一見、不釣り合いだったと思います。ただ昔から好きなことを仕事にしたいタイプで妻からしたら初めて見るタイプだったんじゃないかと思います。舞台とか映画、演劇が好きでね。1974年、20才で八戸市民劇場の会報「演劇のひろば」を編集部長として作っていました。1985年、31才で自主上映映画サークル「八戸シネマウッド」を立ち上げたり。その後、2006年に「八戸せんべい汁研究所®」が企画・主催した第1回「B-1グランプリ」が八戸市で開催され、第2回目からはメンバーとなって写真担当などで活動。今はなくなってしまった地元デパートの三春屋で毎年正月に開催された「B-1グランプリ写真展」のパネルとか制作しましたね。
pacchi 雑誌を続けていて嬉しかったこと、辛かったことを教えてもらってもよいですか?
外和雅章 嬉しかったことはクラフトグループ会長の又川俊三さんにインタビュー記事で100号を迎えられたこと。第23号からそれまでの季刊から月刊化し、そこから人を表紙にすることが多くなりました。人を取材することで地方、地域の今を切り取りたかったんですよね。そっちの方が労力かかるんですけど頑張っている人にスポットライトに当てたい。館鼻岸壁朝市の立ち上げに尽力した上村隆雄・昭子さんご夫妻とのつながりも大きかったですね。創刊したときはもちろん知名度なく、スポンサーさんもなく、小さいサイズでページも少なくて薄い、デジタル化に逆行しているので「今どき紙なんて誰も読まないよ」なんて揶揄もされました。でもアナログの魅力をキープしたい、と。あとコロナ禍のとき、社会状況としても大変ななかでも離れないでくれたスポンサーさんも多く、それは感謝でした。一層、頑張らないと気を引き締めました。ずいぶん前に八戸せんべい汁研究所の木村聡さん、ミニチュア工房ちびっつ@の雫石仁さんとテレビ朝日の「人生の楽園」に出演したのも懐かしいです。
pacchi 雑誌を作るにあたりルールを決めていますか?
外和雅章 ユキパルの編集方針はいわゆる「情報誌」でないこと。あくまでも取材した人みなさんをPR、応援したい。評論批評的なことはできないし、一緒にコラボしている気持ちかなあ。活動的な人と一緒に頑張りたい、それが「PRマガジン」というニュアンスのこだわりです。ちなみに雑誌の購買層が地元9割。通販で見ると1位が宮城県、2位が東京、3位が兵庫県となってます。
―――ユキパルの方向を変えた東北大震災。日本全体に閉塞感が漂っているなか頑張って活動している人から元気の源を、僕自身が分けてもらいたかったんだと思います。
pacchi 時系列にユキパルの出来た経緯を教えてもらえますか?
外和雅章 2008年8月に企業組合ユキパルを起業しました。もともと八戸市内のタウン情報誌などで取材編集活動を行っていました。同年10月にフリーペーパー『元気創造ローカルマガジンゆきぱる』を創刊発行し、11月に第2号を発行するも資金難とスタッフ間の方向性の違いから3号制作途中で休止しました。以前関わっていたタウン情報誌とはテーマ、スタイルが異なる地域雑誌を模索していまして、地元の新聞や業界パンフレットなど印刷物の編集制作を続けていました。そんな折、2009年から3年間の八戸市の緊急雇用対策事業の1つとして八戸朝市銭湯横丁調査事業を受託しました。その事業の中で毎週のように通っていた館鼻岸壁朝市の賑わいを再認識。2010年7月に有料小冊子(A5版)で『八戸リージョナルマガジン ユキパル』を創刊。朝市に多く題材を求め取材するなど朝市との結びつきが強く、一時期『朝市マガジン』と銘打ったこともありました。
pacchi WEBと連動しているのが「ユキパル」の特徴だと思いますが何がキッカケだったのですか?
外和雅章 朝市になぜこんなに多くの人が集まるのか?朝市の魅力とは一体なんなのか?とずっと考えていました。漠然と、このエネルギーを青森県および八戸市の観光のポータルとしてもっと活用できないかと思い。八戸大学(現八戸学院大学)地域連携研究センターが主催し、大谷真樹氏(後に学長、インフィニティ国際学院学院長)が主任講師を務める社会人講座「起業家養成講座」を受講しました。修了式を翌日に控え、予定されていたビジネスモデルプレゼン発表会に向け、スライドデータを作成していたその最中に東日本大震災が発生。その時のタイトルが〈WEB八戸朝市〉だったんです。延期されて5月に発表した〈WEB八戸朝市〉は、朝市を通じて八戸をPRするがテーマでした。『①朝市は地場産品のショーケース。②朝市はメディア。③朝市はコミュニティ。』と定義した上で、実際の朝市(リアル)とWEB八戸朝市(バーチャル)を組み合わせて、地場産品販売の拡大を図る。八戸朝市を観光ポータルサイトの1つとしてWEBと紙媒体でPRするという内容でした。県の補助金なども活用し、2012年に〈WEB朝市通販〉を開設。朝市通いが高じて妻の外和朋子を巻き込み、7月〈朝市通販みやげ屋〉として実際に出店するようになりました(笑)。9月に『館鼻岸壁朝市まっぷ秋版』を発行、『朝市まっぷ』第1号となったんです。
pacchi 2011年3月11日は外和夫妻にとって大きな出来事だったんですね
外和雅章 はい。東日本大震災以前から日本全体に閉塞感が漂っているように思えましたし、それらは真っ先に地方で直接的に現れていたと思います。だからこの土地で頑張って活動している人だったり地場産品だったりを発信して元気にしたいと思いました。そうすることで地域の元気の源を、僕自身が分けてもらいたかったんだと思います。そして現代のデジタル全盛の中で、朝市での対面販売というアナログな商いにはそういうエッセンスが詰まっているように思えて発行の原動力になりました。
pacchi ユキパルはどんどん拡大されていきましたね?
外和雅章 2015年10月に「ニッポンに届け!朝市の元気」をスローガンに開催された〈第20回全国朝市サミットin八戸〉でポスター、チラシなど印刷物作成のほか裏方のスタッフとして活動しました。一方で雑誌「ユキパル」は人的資金的に発行体制に困難を抱え、しばらくは年4回の発行でしたが、2016年4月から月刊化に踏み切りました。その直後、取材編集をほぼ1人で担当していた私が、脳梗塞を患いまして。幸い軽度で入院することはなかったのですが、負担を軽減するため2020年から代表を営業担当の外和朋子に移しました。そのお陰もありまして2022年9月号で100号発行を達成することができました。
―――これからのユキパルはpacchiの成長で変わるかも。朝市が若返っていく。ありがとうって自然に口にできる歌に感謝しています
pacchi 1人1人質問させてください
虹乃愛んな pacchiが朝市にもたらした効果、変化ってありますか?
外和雅章 もともとピーマン「朝市ライブ」とか、朝市で音楽ライブを行うことは割とよくあります。ただ今みたいに地元の朝市公認アイドル&PR大使という形でpacchiが出て来てからは、地元の自分たちのアイドルということで応援のしがいがあるんだと思います。応援することが楽しみで会場に来てくれたり、来るたびに歌が上手になっていくという喜びを来場者と出店者の人たちが共有するんですよね。あと小さな子供たちが一緒に踊っている、そういう現象がみるみる大きくなって。老け込んでいた高齢者たちも若返りしていくんですよね(笑)。あとリアルに朝市会場に若い子が増えたと思いますよ。最近ではテレビでもよく見るようになってきたアイドルたちを直で見て、一緒に踊れている不思議さも新鮮な衝撃なのかもしれません。八戸、朝市史上ミラクルな衝撃的な現象じゃないですかね(笑)
梅津芽生 pacchiの好きな歌を教えてもらえますか?
外和朋子・雅章 『希望トレイン』と『笑ってごらん』です。『希望トレイン』は元気が出るし、前向きな歌詞が好きです。『笑ってごらん』は耳心地がいいメロディーが好きです。出展者からもpacchiの曲は明るくしてくれる曲が多く、ありがとうといってくれる声が聞こえますよ
加賀琴美 「ユキパル」って名前はどういう意味があって、どうしてつけたんですか?
外和雅章 最初にも言ったけど、「ゆきぱる」って、結わえる、結ぶっていう南部弁なんですよね。琴美ちゃんたちは若いから、使ったことも聞いたこともない言葉だろうね(笑)。今の時代は前と比べて、やっぱり人と人との結びつきは薄く無関心になってきているから、人との触れあいとか関係性って大事じゃないかなという思いからです。
水綺もか つらいときとか、苦しいときとか悩んだときは、どう乗り越えたんですか?
外和朋子 やっぱり、そこで止めてしまえばそこでお終いだなという気持でしょうか。やり続けなければ、全部終わってしまうし、これまでやってきた意味もなくなってしまうなぁと思って、達成したときのイメージを思い浮かべて、苦しくても前を向いて乗り切ろうと思いました。
『八戸マガジンUKIPAL(ユキパル)』
エリア情報誌・月刊(1日発売)
定価:350円(税込)
出版社:企業組合ユキパル
発行人:外和朋子
編集長:外和雅章
刊行期間:2010年8月号 –
発行部数:年間12,000~20,000部
◆WEB関連◆
公式ウェブサイト:https://ukipal.jp/
通販サイト〈朝市通販〉:https://ukipal.jp/web_asaichi/
Facebook: https://www.facebook.com/profile.php?id=100057410711563
Instagram:https://www.instagram.com/sotowatomoko/
Twitter:https://twitter.com/sotowa
◆沿革◆
・2010年7月29日にA5サイズの『八戸リージョナルマガジン〈ユキパル〉』(200円)創刊。創刊時は発行人・下村完児氏、編集人・外和雅章。市内の一部書店のみの販売
・2011年3月号vol.3から300円
・月刊化を模索するも制作発行体制が整わず、事実上の季刊
・2012年8月にWEB-UKIPALとあわせWEB朝市通販を開設
・2013年9月に『館鼻岸壁朝市まっぷ秋号』を発行
・2014年4月以降、毎年春に年度版『館鼻岸壁朝市まっぷ』を発行
・2014年6月号vol.14からB5サイズ定価320円
・2016年2月号vol.22からA4サイズに拡大
・2016年4月号vol.23から月刊
・2017年12月号vol.43から八戸市内の一部セブンイレブンの取扱いが始まる
・2018年8月号vol.51から八戸市内のローソン全店で取り扱いが始まる
・2020年2月号 vol.69から外和朋子が発行人
・2020年8月号vol.75から定価350円
・2022年9月号でvol.100号